日常生活の中で、行き詰まった時に、時々、思い出す言葉があります。
ヨーロッパで昔から、色々な人によって伝えられてきた祈りの言葉(通称、ニーバーの祈り)なのですが、アルコール依存症の当事者による自助グループ(A.A. :アルコホリックス アノニマス、日本でも全国各地にグループがあります)で、この祈りの言葉が取り入れられ、世の中に広く知られるようになったそうです。
O God, Give us serenity to accept what cannot be changed,
Courage to change what should be changed,
and Wisdom to distinguish the one from the other
日本語訳
「神よ、私に変えられないことはそのまま受け入れる平静さと、変えられることは、すぐにそれを行う勇気と、そして、それらを見分けるための知恵を、どうぞお与え下さい。」
大切な人の死という事実は変えようのない出来事ですが、この苦しい出来事をどのように受け止め、これからの人生をどう生きるのかは、私たちが考え、決めることができます。
大切な人の死を周囲の人に伝えた時に、自分の悲しみを理解してもらえなかったり、何となく避けられてしまったり等して、傷つくことがありますが、「私の悲しみをわかってくれる人は誰もいない」と心を閉ざし、伝えることを諦めてしまったら、人と深く交流することは難しくなり、人生が孤独で、苦しいものになるのではないでしょうか。
人が幸せに生きるためには、悲しみや苦しさを共有してくれる誰かが必要なんだと思います。悲しみと向き合うのはその人自身の仕事で、他者が肩代わりすることはできませんが、悲しみに寄り添ってくれる人がいることで、「自分は独りではない」と感じ、何とか生きてみようという小さな希望を持てるようになるのだと思います。
私は元々、自分のマイナスな感情(怒りや悲しみ)を他者に伝えることがとても苦手だったのですが(生育した家庭で、そういった感情は表出するものではないという暗黙のルールがあり、無意識のうちに抑制して生きるようになっていました)、息子との死別後、自分でもコントロールのできないイライラ、怒りをどうにもしようがなくなり、今までの自分のやり方(辛いことがあっても、他者には話さずに、自分で解決する)を変えて、他者に助けを求めてみよう、と決め、少しずつ、自分の悲しみを語るようになりました。
悲しみを抱えた自分を丸ごと受け止めてもらえた時、とても心が温かくなり、人と深くつながる喜びを初めて知ったように思います(この年になって、友人を作るということはこういうことだったのか、と初めて知りました)。
息子が気づかせてくれた、自分の生き方の問題点(元々身に付けていた、考え方や対人関係のパターンで、生きづらさを生じさせていたもの)は、他にも色々あります。今もその問題点に少しずつ取り組んでいるのですが、少しずつではありますが、自分が変化し、生きるのが楽に、楽しくなってきた気がしています。
人は変わることができるのだと思います。
いくつになっても、変わりたいと強く願い、そのための努力をすれば。
亡くなった大切な人たちも、そんな私たちを見守ってくれているんだと思います。
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